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2007年11月

善意の訪問者

1~2日おきに、仕事の帰りに実家へ行って泊まり込むようになり、帰るとすぐに「今日は誰か来たの?」と母に尋ねても「誰も来ないよ・・・」と応える母でしたが、ときおり見慣れない食器とか、お菓子の袋や箱があって、たぶん近所の人が来てくれたんだな、と思われる日がありました。

リビングの食器棚の上に取り付けたIPカメラとインターネットを利用して、遠隔監視ができるようになってから、母しか居ない平日の昼間、いろいろな人が訪ねてきていることが分かるようになりました。

ご近所のお婆さんがちょっとしたお菓子や煮物を持ってきて、しばらく茶飲み話しをしていってくれるのが、一番安心していられます。

ある日の午後、見慣れない中年のご婦人が3人訪ねてきて、母はリビングに招じ入れ、たぶん出涸らしのお茶?を出しているようでした。
誰だろう?と様子を見て会話に耳を傾けてみると、どうやらキリスト教か何かの布教活動の一種らしく、穏やかに母と談笑し、30分くらいで帰って行きました。

その人達は、その後も1~2週間に一度くらいの割りで訪ねてくれていましたが、2ヵ月くらい経つと、たぶん何回行っても顔も覚えてくれず、話しも解ってくれないし、毎回同じような話ししかしない母の状態に気付いたのでしょうか? 訪ねて来てはくれなくなってしまいました。

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遠隔監視カメラ

母が一人のときに、味噌汁の鍋を焦がして火災報知機が鳴ってしまったり、新聞の勧誘に対応して、3か月分の契約をしてしまったりと、母の行動が心配になってきた頃、

弟が、ネット対応のIPカメラを設置すればインターネットのサービスを利用して、無料で遠隔監視が出来ることを調べてきて、小さなIPカメラをリビングの食器棚の上に取り付けました。

インターネットのサイトにアクセスして、利用者IDとパスワードを入力すると、パソコンがあればどこからでも、あまり大きな画面ではありませんが、実家のリビングの様子を見ることができました。カメラの向きやズームを遠隔で操作することもできましたし、音声も聴こえます。事務所で仕事をしているときも、パソコン画面の片隅にウィンドウを表示させたり、別のノートパソコンを脇に置いて、リビングの様子をリアルタイム映像で確認することができました。

LDKなので、手前に母がこちらを向いて座っている食卓が、その背後には冷蔵庫や台所も見えます。近所のお婆さんがお茶を飲みに来てくれて、話しているところも見えますし、リビングから離れると母の姿は見えませんでしたが、玄関へ行って誰かと立ち話しをしているのも声でわかります。

食事をしている、テレビを見ている、玄関に誰かが訪ねて来て、何か話をしている。など、かなり有効な遠隔監視ができました。

毎日ずっと見ていられる訳ではありませんが、それでも事務所でパソコンを使って作業しているときは、音声を大き目にしておいて、何か変わった声や音がしたら、画面を見るようにしていました。
そうしてみると、平日の昼間、いろいろな人が訪ねてきていることがわかりました。

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心の準備が必要

私が介護の担当になった日は、5時頃で仕事を一旦切り上げ、(通常は大体、早くても8時頃まで仕事をしている)事務所を出て、40分くらい電車に乗って実家のある駅へ向かいます。

途中のスーパーに寄って食材や日用品を買い、母が待つ都営住宅の実家へ。1階の集合郵便受けをチェックして階段を上がってイザ! ドアを開ける前に一呼吸。

この先には普通の会話が成り立たないお婆さんが居るんだぞ。部屋の中は、どうなっているか分からんぞ、と自分に言い聞かせてから、静かにカギを開けて中に入ります。

「ただいまぁ~」 母の顔を見る前には、心の準備が必要でした。

『お帰りなさい。・・・おや、久しぶりだねぇ・・・』

「一昨日来たばかりじゃない…忘れちゃったの?」 

つい言ってしまってから (あ~また余計なコトを…) と悔やむ。

「久しぶりだねェ、元気だった?」と、言えばよかったのに…(^_^;)

母の気持ちを傷つけないように、うまく受け流す。それが事実と反しているからといって、誰も困るわけじゃないんだから。

慣れるまでには 少し時間がかかった。

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夜中に枕元に立つ老婆

母はもともと早起きで、一緒に住んでいた頃から平日は特別な用がなくても5時には起きていました。眠りが浅いのか、若い頃、私が遅く帰宅してもすぐに起きてくるので、母がグーグー熟睡しているところを見たという記憶はありませんでした。

歳をとって、認知症の症状が現れるようになってからは、小さないびきをかいて寝ているところが見られるようになりました。
昼間は、食事が済むと間もなく布団に横になって寝たりするので、この間に仕事をしようとすると、ほんの15分ほどで起きてきて、「あ~よく寝た、ハラ減ったぁ…」などと言うので、仕事が忙しいときなどは、とても苛立ちました。

また、夕食のあと片付けを済ませて、母を寝かせ、翌朝の炊飯の仕込みをしてから夜中の1時頃まで、やり掛けの仕事を片付けて、2時近くになってやっとベッドにもぐりこみます。

3時か4時頃、ベッドの枕元に人の気配を感じて目を開けると、暗い中で母がじーっと立って私の様子を見ていたりするのでビックリです。いくら母でも、夜中に白髪を乱して痩せた老婆ですから・・・一瞬ですが、正直言ってゾーッとします (^_^;)

静かに寝ていると思うと、弟や私の名前を大きな声で呼んだり、夜中に「ハイハイ!」と言って、起き上がり、玄関のドアを開けに行ったりすることも多く、時間の経過や、昼と夜、夢と現実の区別がつかなくなって来ているのは明らかでした。

実家に泊まる日は、安眠できないことを覚悟しなければなりません。それでも私の場合は弟と交代できるし、別の家があって若い家族がいるので気分転換ができますから楽な方だと思います。毎日同居していたら、「こっちがおかしくなりそうだ」と何度思ったか知れません。

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区役所で車椅子を借りる

膝が痛い、腰が痛いと言って自宅から400メートル足らずのところにある、かかり付けの内科医院へ連れて行くのにも苦労するようになりました。タクシーを呼ぶのもはばかられる距離です。

背負って行ったこともありましたが、子供のように私の肩や首にしがみついてくれないので、まるで38kgの水の入ったビニール袋を背負っているような感じです。いつ後ろへひっくり返るか分からないような姿勢では、とても危険でした。

それに、「怖いよー!」「痛い!」「何するんだよー!」などと大きな声で騒ぐ母を一人で負ぶって医院まで行くのは、苦痛でしたし、「年老いた親を虐待しているのではないか」と、近所の人達から見られるのではないかという不安や苛立ちもありました。

いよいよ車椅子が必要になったかと、介護用品のカタログなどを調べて見ると、車椅子というのは、ピンきりでいろいろありますが、最低でも数万円は覚悟しなければなりません。買ってもどのくらい使うか分らないし…迷いました。

介護保険の手続きのために区役所へ行ったときに、車椅子の一時貸出しサービスが受けられることを知りました。

早速、社会福祉協議会の窓口へ行き、事情を話すと、所定の借用書に希望の借用期間(当時最長2ヵ月、現在は3ヵ月)や住所と氏名を書いてサインをしたら、母を病院へ連れて行くのには十分な、簡易なタイプの車椅子を出してきてくれました。

さて、車椅子を取扱うのは初めてでしたが、まず、区役所から駅へ行くバスに乗らなければなりません。畳んだ車椅子を転がしながら、区役所前のバス停で運転手に、乗せてもらえるか聞くと、心配は無用で、運転手は快諾してくれました。電車もOKです、今思えば当然のことなのですが、そのときはありがたく思えたのでした。タクシーを利用すれば簡単なことではありますが、とにかく経済的な余裕は無いのです。

その後も、介護関係の情報は、インターネットを利用して区役所のH.P.を何度も見ては、徹底的に調べました。ときおりニュースなどで「介護疲れが原因とみられる自殺」とか、「心中」などという悲しい報道を見ると、ひと事でないものを感じています。

せっかく借りた車椅子でしたが、母はどうしても車椅子に乗ることを嫌がり、一度も使うことなく、2ヵ月後に返しに行きました。

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仕事と家事、介護

弟も私も職場は、あまり遠くない距離ですが、二人ともパソコンを使うことが多い仕事なので、連絡はもっぱらメールを利用しています。

交代で母の介護をするために、Yahoo!のサイト上でカレンダーを共有できるサービスを利用して、お互いのスケジュールを確認したり、泊まりの日にちを間違えないようにメールで連絡を取り合って、1~2週間の予定を組んでは交互に実家へ泊まり込むようになりました。

週に3~4も実家へ泊まるような生活になってくると、勤めに出ている主婦と同じような感覚になってきます。手帳にはいつも帰りに買って帰らなければならない食材や日用品のメモを書き込んで、駅を降りてから、どこのスーパーに寄って何と何を買って、ドラッグストアで膏薬と鎮痛剤、それにトイレットペーパーもそろそろ無かったな・・・、なんて調子です。

家族は、一日おきに実家へ泊まり、週末も家に居ない私を責めることもなく、ただ黙認しているといった感じでした。女房は、「お母さんの介護とか言ってるけど、もしかして他に女でも・・・?」 あるいは、長男と結婚した嫁にありがちな、「お舅さんの面倒を看なくて済むだけ助かった」と思っていたかも知れません。

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精神科医に救われたこと

椎間板ヘルニアの治療に通っていた整形外科の先生から、紹介状を書いてもらったので、その日のうちにその精神科のクリニックへ電話をして、紹介状がある事情を説明し、受診日時を予約。ネット検索で場所を調べ、一週間後、母には「この頃忘れっぽくなって困ることもあるから、チョッとお医者さんに診てもらおおうね」と言ってタクシーに乗せた。

2005年の4月14日、よく晴れて暖かい日だった。ふた駅隣りの精神科クリニックへは20分くらい、マンションの3階だ。中はとてもアットホームな感じのインテリアで、明るくてオープンな印象の受付け。医院特有の消毒薬のにおいも無い。他に患者と思しき人はいない。間もなく名前を呼ばれ、少し照度が下げられて、まるで書斎のように落ち着いた雰囲気の診察室へ入った。

優しそうな先生に、「こんにちわ!」と迎えられ、立派な椅子を勧められて、母は先生の前に私を座らせようとした。自分は保護者で、子供を医者か教育者に会わせるために同伴してきたような気分だったに違いない。

名前、生年月日、出身地、年齢、今日の日付と曜日などを聞かれ、最初はよかったが、今日の日付も曜日も答えることができなかった。結婚したのはいつ? 数字を100から逆に言ってみてください。今の季節は?…どれも答えることはできない。先生は話題を変え、最近の生活について世間話しのような雑談のような話しをしばらくして、診察は間もなく終わり、母の手を引いて診察室を出た。

少しして私が呼ばれて、診察室に入ると、先生はさっきと変わらぬ穏やかな調子で「重症ですね・・・。高齢になると、その方の本来の性格が強調された形で現れるものなんです、あなた達兄弟がちゃんと面倒をみてくれているのと、ご本人の元々の人格が良いことがよく解りました」、「介護認定を受けるのであれば、私が主治医になりますよ」と言ってくれました。

私は、最近の母と私たちの生活を理解してくれる人がやっと現れてくれたような気がして、何だかホッとしたのと同時に、その言葉を聞いて少し救われた思いがしたものでした。その後、介護認定を受け、ヘルパーさんにも来てもらえるようになったのですが、その先生は2週間に一度の割合で往診に来てくれて、私たちにも優しい言葉をかけてくださることが、どんなに慰めになったかわかりません。

認知症に限らず、介護は心身ともに疲れます、一人ではとてもできるものではなく、家族でも重荷です。医師やヘルパーさんといった第三者が加わってくれることで、労力だけでない心の支えになってもらえることを実感していくことになりました。

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要介護認定を受けるために

仕事の合間をぬってWebで情報収集する一方、図書館にも通って認知症関連の本も少し探して読んでみたりもしました。

「妻がアルツハイマーになった」 佐藤幸四郎

「ここまでわかったボケる人ボケない人」 フレディ松川

「親と離れて暮らす長男長女のための本」 舛添要一

などなど。
父は肺気腫と脳梗塞で74歳の夏に、認知症になることもなく亡くなりましたし、今まで私の周囲には認知症の人はいませんでしたので、母がこの先どうなって行くのか、どう対応していけばいいのかを知りたかったのです。

認知症と一口にいっても人それぞれ千差万別なので、私が思っているような不安には、あまり直接的な役には立ちませんでしたが、やがて家族だけでは在宅介護の限界がくるであろうことや、介護認定を受けてヘルパーさんをお願いした方がよさそうなことは、わかりました。Webで調べた結果、私の住んでいる埼玉県の市よりも、母が住んでいる東京の区内の方がより多くの老人施設があり、介護や生活支援の業者も多いことが分かりました。

私がこれまで、あまり気にしていなかっただけで、当然のことではあるのですが、地域によって、介護を必要とする人の数も違いますし、自宅で家族と一緒に住んでいて、介護できる家庭が多い所と、核家族化が進んでいて独居老人などが多いところなどの事情の違いもあります。また、地方自治体の資金力によって、老人保健施設の充実しているところと、そうでないところの格差も相当あることなどもわかりました。

母が住んでいる東京の区内には、特別養護老人ホームは当時6ヵ所あり、更に2ヵ所建設中であることや、それらの場所や施設の概要もわかりましたが、要介護の認定を受けた者でなければならないことや、申し込んでも実際に入所できるまで何年も待つケースがあることなども分かってきたのでした。

何百万円という高額な保証金や、月々数十万円の入居費を支払う経済力があれば、介護体制の整った老人ホームもいくつかありましたが、とてもそんな余裕はありません。

何はともあれ、区役所の介護保険課へ行って介護認定の申請用紙をもらい、掛かり付けの医師のところへ持って行くと、「あなたのお母さんの場合は、認知症のほうが問題だから、精神科の医者に診てもらって、主治医になってもらった方が良い」といって紹介状を渡されました。

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友達からの助言

母の食事の世話をするために、週に1~2回実家へ泊まり込む生活を始めた頃、しばらく会わなかった友人と呑んで、やがて互いの親の話しになったことがあります。

彼は既に父親を10年くらい前に、母親を2年前に亡くしていました。三男坊なので、自分は親の介護をしなければならない状況にはならずに済んだが、兄夫婦と姉が、認知症の母親の介護で苦労していたことはよく知っていると言っていました。父親は認知症にならないうちに糖尿病が元で亡くなったそうですが、母親は私の母と同じように連れ合いを亡くしてから、間もなく認知症の症状が現れ始めて、ずいぶんと彼の姉や兄嫁の手を焼かせたそうです。

私と母の状況を話すと、「できるだけ早く役所へ行って介護認定をしてもらって、ヘルパーさんを頼んだ方がいいんじゃないの?」・・・。「このままそんな生活を続けていても良くはならないし、ますます介護の時間が多くなって、共倒れになっちゃうぞ」と忠告めいた言い方の助言をくれました。

私の家族は埼玉県に住んでおり、実家へ行くには2時間ちかくかかりますから、子供の手が離れたとはいえ、女房を通わせるよりは、仕事で毎日上野まで出ている私が行って介護した方が都合が良かったのです。サラリーマンとは違って、自営の一人デザイン事務所だから、弟と電話とメールで連絡をとりあいながら何とか今まで時間のやり繰りをしてやって来ましたが、ノンキで楽天的な私もいささか不安になり、その後ネットを利用して役所の介護保険課や介護認定、在宅介護支援業者のサービスや費用などに関するサイトを調べはじめました。

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きれい好きだったのに・・・

元来がきれい好きな母は掃除、洗濯を欠かさないのはもとより、部屋はいつもきれいに片付いて、チリ一つ落ちていませんでしたし、ホコリの目立ち易い黒塗りの仏壇も毎日雑巾掛けをしてピカピカでした。ベランダの植物にはいつもキチンと水をやり、枯れた花や葉はすぐに取り除かれて手入れされていました。それが、75歳になった頃から少しずつできなくなっていきました、…というよりも、やらなくなくなったと言ったほうが良いかもしれません。

母の場合は、ほとんど身体機能の問題はありませんでした。老人特有の膝や腰の痛みとか肩凝り、メニエール病から来る目まいなどもあって、家事をするのがおっくうになったのかも知れません。
そうするうちに、身の回りのことがどうでも良くなって、身体のどこかのちょっとした痛みや不快感ばかりに注意が向いてしまったようです。自分のからだの具合いのことを二の次にしてでも やらなければならない事など なくなってしまったのですから仕方ないのかも知れません。

外出することが少なくなっても毎朝5時頃に起きるとすぐ顔を洗い、髪にブラシをかけてまとめたりはしていましたが、服装にはまったく頓着しなくなりました。着替えさせなければいつまでも同じものを着ていても平気です。布団は敷きっ放しで、パジャマに着替えることもせずに昼間から寝たり起きたり、時間に関係の無い、勝手気ままな生活になっていきました。

同じ都営住宅の他の棟に住んでいたお年寄りが、お風呂で亡くなったという噂を聞いてからは、お風呂には入りたがらなくなりました、爪も切りません。トイレを流すことも忘れるようになり、夕方に家へ行くと部屋中に排泄物の匂いが漂っていることも珍しくありませんでした。

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ボケていく自分が怖かったんだね

母はまだ父の介護をしていた頃から、大学ノートに日記をつけていました。尋常小学校しか出ていない母の日記は、稚拙なひらがなばかりで、テニヲハもときどき間違っていたりするものでしたが、ボケ防止のつもりだったのだと思います。

父が亡くなってからも、毎日少しずつですが書き続けていました。大学ノートが10冊以上もテレビ台の中に積み上げてあります。だんだんと自分でもおかしいと思い始めた頃からは、自分の名前や、弟と私の名前ばかりを繰返し繰返し書いていることが分かります。私はそれを見たときに認知症が憎くなると同時に恐ろしくなりました。自分もそうなり始めたらどんなに焦り、うろたえるだろうか?…と。

近所のお婆さんたちは、ボケたような状態と普通の状態が交錯する時期を「まだらボケというんだよ」と言っていましたが、その頃の母はまさにそれでした。

母が食事をしたことを忘れたり、貼ったばかりの膏薬を直ぐに剥したりして言い合いになったりすると、「私の頭はこの頃変になってきたからね!」「ああ私はキチガイになったんだぁ」といって悔しがり、あるときはすねて怒ったり、絶望したように声をあげて泣いていました。

そのときは「ああ、困ったもんだ…」と思っていましたが、今思うとその頃の母のやるせなくて不安な気持ちが分かるような気がします。

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電話生活

母は若い頃は、あまり電話を掛ける方ではありませんでしたが、父が亡くなって、昼間は一人でいる時間が多くなり、何か困ったことがあったらいつでも電話できるようにと、電話機の傍に弟と私の携帯電話番号を大きく書いた紙を貼っておくことにしました。

半年ほどすると、母の“電話生活”が始まりました。困ったことがなくても、チョッと寂しくなると電話を掛けてくるようになったのです。
最初のうちは、先にも書きましたが、昼間は近所のお婆さん方とお茶飲み話しをしているらしく、ほとんど電話は無かったのですが、夕方になると電話がかかって来て、身体の不調を説明したりするので、とりあえずは話しを聴いてから、今日は何時頃僕が帰るからね、と言う程度で切っていました。

近所の人たちも、母の様子が少し変なことに気が付き始め、話しがかみ合わなくなって来ると、すこしづつ行き来も少なくなってきたようでした。

その頃から、母からの電話が夕方に限らず、午前中や昼間でも頻繁に掛かってくるようになるまで、あまり時間はかかりませんでした。自分が電話をしたことを直ぐに忘れてしまうので、一旦電話を切って、布団の中でウトウトと20~30分くらい一眠りすると、また電話をかけたくなってしまうのでしょう。

弟に確認すると、弟と私と両方に交互に電話をしているらしいのです。話中だったり、電波の届かないところに居たり、留守電になっていたりすると必死になって何度もかけ直すらしく、二人の携帯電話に一日で、それぞれ30回以上もの着信記録が残っていることも少なくありませんでした。

そんな母から私たち兄弟への“電話生活”は半年以上も続き、その間家の電話料金は毎月1万円を軽く超えていました。

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一人の時間が認知症を加速

母は頭にバカが付くほど正直で、短気な性格ですが、もともと話し好きで世話好きで、とてもオープンなタイプの人でしたから、近所の人達には人気があり、信頼もされているようでした。

父や弟と共に創価学会(日蓮宗)の信者でもありましたから、日々の勤行(ごんぎょう)も欠かさず、座談会と称する集まりにも熱心に参加していました。

父が亡くなってからも数年は続けていたようでしたが、椎間板ヘルニアで腰が痛むようになったり、記憶力が衰えてきて、御書と呼ばれる分厚い教書を読む勉強会への足も次第に遠のいて、外出することも少なくなり、昼間のあいだは近所のお婆さん連中とお茶を飲みに互いの家(部屋)を行ったり来たりして、おしゃべりを楽しむ程度になっていきました。

昼間はそんなことで時間がつぶれていても、夕食の頃からは誰でも自宅で過ごす時間になりますから、自分で料理が思うようにできなくなってからは、息子が帰って来るのを一人でテレビを見て待つことになります。

冬などは早々と布団にもぐり込んでしまうことも少なくなかったようです。そんな生活が認知症を加速したのではないかと思います。喧嘩をしてもいいから、いつも一緒にいてくれる人が居ないのは、健常者でも寂しいものですが、老後は認知症への近道になってしまいそうです。

テレビを見たり、本を読んだり、ペットを飼うのも脳の活性化には役立つとおもいます。母にも一時は、手乗り文鳥やハムスターを飼ってもらいましたが、やはり人間は人間と一緒にいて話したり、何かを手伝ったりすることが一番ではないでしょうか。

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療養入院、そして徘徊

ある日、メニエール病で通っていた掛かり付けの医院へ母を連れて行くと、少し栄養状態が良くないようだから、短期間の療養入院をしてはどうかと勧められた。先生はそんなつもりで言ったのではなかったようだったが、弟と私が母にきちんと食事をとらせていないと言われているような気がして悲しかった。

言われるままに紹介状をもらって、その病院へ母を連れて行き、約10日間の予定で入院させてもらった。介助がなければ自分では動くことも、食事もできないような重症の患者が多く、母の病室はナースステーションから離れた部屋だったので、前歴を説明して、看護師の目の届く範囲にしてくれるように頼んだが、重症患者が優先であるといわれては、仕方がなかった。

弟と交代で、毎日のように電車とバスを乗り継いで、不便な場所にある病院へ見舞いに行った。確か5日目くらいの朝、その病院から電話がかかって来た。「ヤッパリまた脱走したか!」と緊張した。

今度は、早朝に病院内の地下のまだ開いていない売店の前をうろついているところを、医師が見つけて、病室に戻したが、やはり強硬に帰りたいと言って、どうしようもないから迎えに来て欲しい、ということだった。午後からの仕事の予定をキャンセルして母を迎えに行った。

今回は幻覚が見えたりはしていない様子で落着いていたが、「直ぐに家に連れて帰ってくれ」と泣いていた。悔しくて悲しく、割り切れない思いでタクシーを呼んだ。

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脳のリハビリ

母の様子がだいぶ変になってきた頃、母の記憶を何とかつなぎとめて置きたいと思うようになった。最近の出来事はすぐに忘れてしまうが、ときどきではあっても若い頃のことや、その頃の周囲の人たちの話しをすることがある。もちろん私には記憶はないが、父と話しているところを何回も聞いていたりしていたし、信州の田舎へも子供の頃や長じてからも何度も行っているので、特徴的な地形も多少はわかる。

まるで聞き取り調査のように筆記用具を用意して、自宅から小一時間も歩いて尋常小学校へ通っていた子供の頃のこと、机に向かう勉強が嫌いで、身体は小さかったが体育が好きだったことや、長い学校の行き帰りには友達と一緒に道草を食ってこと。

紙に、当時の自宅から学校までの地図を書いて、どこに何という名前の友達の家があったとか、どこをどう寄り道したとか、親戚の家がどこにあったとか・・・・。

小学校を卒業してからすぐに岐阜の紡績工場へ働きに出されたこと、いくつかの仕事先のエピソード。当時の写真なども引っ張り出して、母の記憶の糸をほどいていった。

信州の山奥に住んでいた母と江戸っ子の父が、いったいどんなきっかけで結婚することになったのか?当時の生活がどんなにひどい貧困状態だったか・・・。

諏訪で私が生まれたときのことや、母乳が出なくて、当時は粉ミルクなどというものは無く、困ってご飯をすりつぶし、お湯と砂糖を少し入れて飲ませてくれたことなどを、涙を流しながら話してくれた。

母の若かった頃のことを知ることで、外出することが少なくなった母にいろいろな話題を投げかけて母の脳を活性化することで、認知症の進行を遅くできるのではないかと期待していた。最近のことは直ぐに忘れるから、「この前話したじゃないか」などと言われる心配は無かった。

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サロンパスは何度でも

母は若い頃から肩凝りがひどい方で、トクホンとかサロンパスなどの貼り薬が手放せなかった。

歳をとっても相変わらずで、肩が凝った、腰が痛むと言っては、膏薬をアチコチに貼っていた。特に痛みには敏感なようで、少しオーバーじゃないかと思うくらい苦痛を訴える。

50代の頃、同じ住宅のAさんは、私に会うといつも身体の具合の悪いコトばかり話すんだから嫌になっちゃう…などと言っていたものだが、自分では気が付かないうちに母も見事にそうなってしまっていた。

身体の不調を言わないでは居られないらしい。私の顔を見るたびに、「今日は腰と背中と歯が痛くて、一番辛いのは膝の内側で・・・」などと言う (^_^;)

膏薬を貼るのが一番いいと思っているらしく、背中や腰に貼ってくれとしょっちゅう頼まれた。
80歳になった頃からは、膏薬を貼ってやっても、いつ貼ったのか忘れてしまうので、ものの15分もすると、すぐに剥している。

もったいないと思うから、つい「さっき貼ったばっかりなのに!」と呆れたような言い方をした。きっと母の気持ちを傷つけていたのだと思う。
サロンパスくらい何度でも貼ってあげればよかった。

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味噌汁と火災報知機

母は、元気な頃、ご飯には必ず味噌汁を作ってくれていた。

長ネギ、ワカメ、豆腐、ナメコ、玉ネギ、キャベツ、千六本に切った大根、小松菜、ホウレン草、ジャガイモ…どの具材の場合でも、必ず油揚げが一緒でした。おかずが少な目のときはそこへ卵を落としてくれました。どれも美味しかったことは今でも忘れない。

7年くらい前、まだ認知症が軽かった頃、といっても既に自分では料理ができなくなっていましたので、冬場は朝食を作るときに少し味噌汁を多目に作っておいて、昼に温めて食べてもらうようにしていました。

ある日、帰宅すると、部屋の中がチョッと香ばしいような何かを焦がしたようなニオイでいっぱいになっていて、アルミ鍋の中は真っ黒に焦げ付いていた。母に尋ねると、昼に味噌汁を温めようとしてガスレンジを使ったがウッカリ消すのを忘れてしまって、たくさん煙りが出て、隣りのお婆さんが飛んで来て消してくれたのだと言うではないか・・・。

翌日、親しく近所付き合いをしてもらっていた そのお婆さんに聴いてみると、正にその通りだっただけでなく、“おまけ”がついていました。

台所の煙感知器が働いて、共用廊下の端にある火災報知器のベルが鳴ってしまったので、近所の人達がビックリして廊下に出てきたという一幕もあったらしい。

「火事にならなかったからよかったけど、気をつけてくださいね」と言われた。その後も三回くらい鍋を焦げ付かせるようになったので、弟も私も怖くなって、母しかいない時は、ガスレンジを使わないようにと書いた張り紙をガスレンジのツマミ部分を覆うように貼りつけて、元栓も閉めて外出することにした。

コーヒーなどを保温する電気ウォーマーを買ってきて、味噌汁の鍋をそれに乗せておいてみたが、温度が高過ぎるのか?コーヒーとは違って、昼にはとても飲めたものではないものに変質してしまうことがわかった。保温式の弁当箱も利用してみたが、今まで使っていなかった道具は、どんなに教えても使い方が理解できなかった。

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メニエール病のクスリで幻覚

母は、認知症になる前からメニエール病で、近くの行きつけの内科医院に通って治療薬を処方してもらっていた。

内容的には、ビタミン剤と、めまいを抑えるための(精神)安定剤だったようである。毎食後に決められたカプセルか錠剤(2~3種類)を飲むように指示されていた。

私はそれぞれの薬を食事ごとの種類に組み合わせて、小さなビニール袋に入れ、朝昼晩の区別を書いて、母に説明した。朝と晩、一緒に食事をしたときは私が袋を開けて、水の入ったコップと共に渡した。

東部地域病院での脱走事件があってから、今度は東京女子医科大学東医療センターの泌尿器科を紹介されて2ヵ月に一回、またタクシーで20分以上かけて通うことになった。

その病院には、「心の医療科」という診療科目があることに気がついたので、早速そちらも受診するように手続きをした。泌尿器科の検診を終わってから「心の医療科」へ。受診の前に問診票には東部病院での幻覚のことも含めて、私が日ごろの状況を記入した。

いざ受診。待合室には、手首を傷だらけにした若い娘がいたりして、精神科だなぁ~と思った。一緒に診察室へ入って傍に立って様子を見させてもらった、担当医師である女医さんの質問に応えて、ペラペラと話しをする・・・。医師の曰く、「お婆ちゃんボケてないわよ~」を聴いたとき、こりゃダメだと思った。

でも、一つだけヒントをもらった。それはメニエール病のめまいのクスリとして処方されていたものは、夕刻に飲むと幻覚を見る場合があるので、夕食後に飲ませてはいけないということだった。もちろん処方してくれた医院(調剤薬局)からは、いつどのクスリを飲ませたらいいかという指示はあったし、弟と私はそれを守るように分包していましたが、母は弟や私が居ないときにこのクスリを飲んでいたらしい。

弟が夜帰宅すると、「なぜ隣のオバサンのところへ先に帰って、私のところは後なんだ?」と言われて、キョトンとしていると、「隣からお前の話す声が聴こえた」と言ったらしい。隣のオバサンと浮気をしている(笑)と攻められたことが何回もあるらしい。

都営住宅だが、昔と違って鉄筋コンクリート造なので、よほどの大きな音を出さないと隣家の音や声は聴こえない。母の幻聴らしいと分かったのは6ヶ月くらいしてからだった。早速そのクスリは捨てた。

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脱走の理由・・・

私がベッドの脇にもどると、母は声を落としてそっとささやくように「この家は大きいね、それに娘さんばっかりだよ…」と言った。

私は「ウン、そうだね」とだけ応えて、ベッドを6人部屋の病室に戻してもらった。

病室に戻っても、母は横になろうとせず、ただボーッとしたままで、小さな声で「家へ帰りたい」と繰返した。私は看護師が退出してから、できるだけ落着いた静かな調子で「どうして逃げ出したの?」と切り出した。

「だってひどいんだよ、私をベッドに縛り着けるんだもの…」「この部屋は男の人と一緒だし、こんなところには居られないよ」と言った。

母の手首には、拘束されたらしい痕があった。

病室には男性かと見間違いそうな様子のお婆さんはいたが、もちろん男の患者などいなくて、母の勘違いである。

「夜はガーガーうるさいし、皆で私の悪口を言ってるし…」

喉にチューブを差込まれて呼吸音の大きい患者が斜向かいにいた。私の悪口…は認知症の初期にはありそうな被害妄想の一種だろうと思われた。

「ほらっ、そこに魚がいるよ」と病室の壁や天井を指さした、幻覚が見えているらしいことに内心驚いた。

私はナースステーションに行き、「なぜ母をベッドに縛り着けたのか?」と聞いてみた。『家に帰る!』と言って、ひどく興奮して看護師を叩いたりするし、食事を摂ろうとしないので点滴も必要になったので仕方なく…と説明された。

検査はおおかた済んでいるので退院して良い、と言うよりも「早く退院して欲しい」といった口振りだった。

荷物をまとめ、ゆっくりと母の手を引いて、窓口で精算を済ませてタクシーに乗せて帰宅した。悔しくて、ひどく悲しかった。

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病院を脱走したこと・・・

5年ほど前の7月のこと、当時母は、それまでに一旦薬で治ったはずの膀胱癌に再発の疑いがあったので、自宅からタクシーで30分くらいかかる東部地域病院の泌尿器科へ2ヶ月に一度くらいの割合で検査に通っていた。もちろん母一人では行かれず、必ず弟か私が付き添わなければならない。

あるとき検査入院の必要があると言われ、弟が三日分の着替えを持って母と一緒に病院へ行き、あまり気の進まない母を入院させた。

2日後、翌日が退院なので、今度は私が迎えに行くため、埼玉県の私の自宅から行くよりも時間の節約になると考え、前日の晩に実家に泊まることにした。

当日の朝、5時に病院から電話がかかって来た。

母が早朝に病室から逃げ出した、連れ戻したが、どうしても今すぐ家に帰ると言って騒いでいるので迎えに来て欲しいというのだ。

まだ静かな病院の廊下を行くと、ナースステーションの脇の薄暗いところに移されれたベッドの上に、顔色の悪い、乱れた髪でボーッとした母が座っていた。

看護師に聴くと、朝方病室の見回りに来てみると、点滴のチューブを引きちぎって、採尿用のビニール袋をぶら下げたまま裸足で逃げ出していたらしい。

駐車場まで出てきたところを、警備員と看護師に捕まえられて、病室のフロアのナースステーションまで連れ戻したという。

私の顔を見て少し落ち着いてきたようなので、一旦病室までベッドを戻してもらい、母の言い分を聞いてみた・・・。

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食事をしたことも忘れる

まだ独身である弟の居場所は、基本的には母のいる実家(2DKの都営住宅)なのだが2003年の夏頃から、弟は母と一緒の生活に耐え切れず、私に助けを求めるようになった。

母の介護のため、というよりも弟の精神状態を救済するために、仕事を終えてから、私が実家へ行って泊まり、その日は弟は自分の事務所に泊まることになる。それでも母が居ないところで眠れるので、少しは気持ちが楽になるらしい。

病院へ連れて行くのとは別に、初めのうちは週の平日に1~2回程度、実家へ泊り込みに通うことになった・・・。

仕事を終えて、帰り掛けにスーパーへ寄って食材を買い込んで実家へ行き、夕食を作る。まだ初めの頃は、食事の用意も手伝ってくれて、一緒にテレビを見ながら食事をしていたし、後片付けも手伝ってくれたりしていた。

1年半くらいそんな生活を続けただろうか・・・。

ある朝食を済ませ、あと片付けをしていると、母が「朝ご飯まだだよねぇ…」と言うではないか。またか…と少し苛立ちながら「今一緒に食べて、あと片付けをしているんじゃない!」というと「食べてない!!」と怒り出す。

食事に限らず自分のしたことをすぐに忘れるようになったのだ、メガネがなくなった、財布がなくなったといっては、アチコチ探し回り、仏壇の引きだしや枕の下から見つけては、

「母さんが自分でしまったんでしょ?」

「私はそんなことしてない!誰かがやったんだ!」

「他に誰もいないじゃない!」

などというやり取りを何回したことか…。

毎日のように母を怒らせ、大声で怒鳴りあう、ケンカ腰の言い合いを何回したかわからない。母は苛立ち、ティッシュボックスや新聞、箸などをテーブルや床に叩きつけた。

自分のことではないのに、悔しくて、悲しくて・・・母の現実がなかなか受け入れられず、どうにもやり切れない日々だった。

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悪気はないのに嘘を言う

母は当時、「メニエル病」と「腰の椎間板ヘルニア」それに「膀胱癌」の疑いがあり、

2週間に1回ずつくらいの頻度で、それぞれ異なる病院へ通う必要がありました。

弟も私もそれぞれに職種の違う個人事業主で、ほとんど従業員のいない状態ですから、クライアントとの調整さえできれば、時間は自由になったので、交代で病院へ連れて行っていました。

母は、もともと話し好きな方で誰かれかまわず、話し掛ける明るい性格でしたから、病院の待合室でも、よく他の患者さんと話しをしました。

私がそばでそれとなく聞いていると、初対面の他人ですから当然なのですが、その日の天候や気温のことなど、当たり障りのない話題です。でも、そこは病院(医院)ですから、ときには互いの年齢や病状の話しにもなります。

年齢を聴かれると、当時78歳でしたが、あるときは80歳と答え、またあるときは77歳などと言います、もちろん相手だって真剣に聞いている訳ではないので、どーでも良いのではありますが・・・(^_^;)

病状の話しになると、腰が痛む椎間板ヘルニアの診察を受けに整形外科へ行ったときは、膝が痛いから、とか内科の「メニエル病」の症状である「めまいがする」などと説明しているのです。

そばにいると、嘘をついているように思えて不快でしかたがありませんでした。

待合室での他の患者さんとの雑談ならばそれでもよいのですが、イザ診察の段になって医師の前でも同じように、昨日まで腰が痛い腰が痛いと騒いでいたから、仕事の時間をヤリクリして、さっきまで腰が痛い!と言う母をタクシーに乗せて連れてきたのに、

「腰はなんともありません、膝が痛いんです」などと言う・・・・(-_-;)。

初診ではないから、当然分かっているんでしょうけど、痛みは目に見えませんから、「そうか腰の痛みがとれてよかったね、今度は膝が痛みますか?」なんてやりとりを聴いて、「そーじゃなくって・・・」とさっきまでの母の症状を説明しなければならない。

本人は悪気があって嘘をついているつもりなど、まったく無いので、腹立たしいやら可笑しいやら、何ともストレスの溜まる病院通いの日々でした。

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