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2007年12月

デイサービスの連絡ノート

デイサービス先の老人施設では、私たち家族との連絡用に小さなノートを用意してくれて、毎回、母が施設でどんなふうに過ごしたかを簡単なメモとして書いてくれました。

今日は昼食を残さず食べてくれましたとか、他の利用者と楽しくおしゃべりしていましたとか、折紙をした、近くの公園へ散歩に出かけて落葉を拾いました、皆で歌を唱って楽しそうにしていたとか…。

帰宅した母にデイサービスで今日は何をしたのか聞いたところで、私が帰宅する頃にはデイサービスへ行ったことも何も覚えていませんでしたから、この連絡ノートはとても助かりました。

恒常的にはメニエル病のクスリも何も服用していませんでしたが、膝や腰がどうしても痛いと言うときは、市販の鎮痛剤を飲ませていましたので、デイサービスへ行くときは、必ずチャック付きの小さなビニール袋に何というクスリで、どのような場合に服用させたら良いかといったメモを同封して、母のお気に入りの手提げ袋に入れて持たせていました。

朝、デイサービスへ出かける前に鎮痛剤を服用させた場合は、その旨、時刻を含めてノートに記載しておき、施設へ行ってから短時間に再度服用するようなことのないようにしていましたし、逆に施設に居るときにその鎮痛剤を飲ませてもらったときは、その時刻を連絡ノートに書いてくれましたから、帰宅後に重複して服用させてしまうようなことも防ぐことができました。

「次週はお天気が良ければどこどこへ出かける予定です」
「模擬店が出ますから小銭を持たせてください」あるいは「立て替えておきましたから、ケーキとお茶代150円を次回おいでになるときに持たせてください」
などといった諸連絡もありました。

施設で他の皆さんと一緒に作った母の折り紙や貼り絵の作品を持たせてくれたり、バスで有名な公園や、浅草の雷門の前で撮った記念写真、施設でのスナップ、稲刈りをしたときのスナップ写真などを挟んでくれたりもしました。

毎週火曜日はデイサービスで入浴をさせてもらうので、名前を書いた肌着の着替えを紙袋に入れて用意します。
全ての衣類や持ち物には名前を書いておきます、本人が自分のものかどうか判断できないからです。着て行ったはずのカーディガンと違うセーターを着て帰ってきたこともありましたが、連絡ノートに書いて探してもらい、次週には返してもらったこともありました。

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介護のチームワークにメールを活用

介護事業者のケアマネージャとの連絡は、もちろん電話もありましたが、弟も私も平日の昼間は仕事で、移動中や会議中には出ることができませんから、緊急の場合を除いて電子メールを利用させてもらうことにしました。

デイサービスの老人施設の責任者にも同じようにしてもらい、コムスンの訪問歯科診療の連絡もメールです。
コムスンさんはコーディネート役でしたので、歯科医の先生のアドレスも教えてもらい、訪問予定の変更や確認は、もっぱらCCメールで情報共有し、場合によってはケアマネージャもCCに含めて、ヘルパーさんの介護時間の調整などにも利用してもらいました。

ヘルパーの綾野さん(仮名)は、携帯メールが使えるので、直接メール連絡を取り合って、行き違いや勘違いで、母の食事が用意されなかったりすることも無く、連携プレーがとてもうまくいきました。
時には、母の様子を写メールで送ってくれたこともありました。

交代で泊まり込んで介護している弟とは、いつもメールで予定を確認したり、ヘルパーさんやケアマネージヤ、訪問歯科医の先生などとのメールのやり取りにはいつもCCに入れていましたから、私がケアマネージャやデイサービス先の施設に頼んだことや、連絡をもらったことも全て承知していました。

電話と違ってメールの場合はCCを利用することで、頼みごとを、複数の関係者に個別に電話で説明する必要もありませんし、記録が残るので「言った」「言わない」といったことや、ウッカリ忘れたりするトラブルもありませんでした。特に日時が先になる予定などは自分で送ったメールや、もらったメールを再確認できるところなども助かりました。

一度だけ、私が泊まり込みの予定で実家へ行くと、メールの確認を忘れていた弟が既にベッドに寝ていて笑ったことがあった程度です。

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「デイサービス」デビュー

デイサービスに通うには、ケアマネージャと相談しながら、サービスを提供している施設を探して申込みをしてもらいました。
間もなくその施設から担当者が面接に来て母の状況を確認し、どんな対応や介護ができるかを協議します。契約書のいろいろな事項を確認して押印し、契約書を取り交わします。
通常は本人なのですが、母は認知症なので私が代理人となりました。

その特養ホームのデイサービス部門は認知症の人を受け入れる認可がまだ無かったのですが、性格が穏和だから一般のお年寄りと一緒でも問題ないだろう、というケアマネージャからの助言もあり、無事契約することができました。
どのような条件があるのか分りませんが、半年後くらいには認可を取得したようでした。

こうして、2005年6月14日(火)初夏の好天の日、初めてのデイサービスデビューです。

いつものように8時から一緒に朝ご飯を食べ、外出できる服装に着替えさせて、私は後片付けをしながら綾野ヘルパー(仮名)が来てくれるのを待ちました。
9:20頃、綾野ヘルパーが元気な声で“おはようございま~す!”と現れて、まず母の髪を整え、「今日はデイサービスね、私も一緒に行こうかしら」などと明るい気分にさせてくれて、バスまで送ってくれました。
初日なので私もバスまで一緒に行き、マイクロバスに乗っていたヘルパーさんにバトンタッチ。ちょうど子供を幼稚園へ送り出す母親と同じです。

綾野ヘルパーはそのまま帰り、私は仕事に向かいました。

午後4時半の帰宅の時刻には、また綾野ヘルパーが迎えに来てくれて、母と一緒に家へ入って6時まで夕食の世話などをしてくれます。

それから、毎週火曜日と木曜日は、9時50分頃にマイクロバスが住宅のすぐ近くへ迎えに来てくれて、午後4時半頃に同じ場所まで送って来てくれます。
バスの時刻は正確で、いつも5分と違いませんでした。

今年の2月25日に特養ホームへ入所するまで、母もほとんど嫌がらずに通いました。
時には朝食を済ませてからも、弟や私には「今日は外出したくない」とか、「足が痛い」、「寒いから・・・」などとグズったりすることもありましたが、綾野ヘルパーがいつも明るく、何とかその気にさせて送り出してくれました。感謝、感謝の気持ちで一杯です。

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ハグ

私の親は大正生まれで、私は男の子ですから、私の記憶に残っている限りでは、母に抱きしめてもらった思い出はありません。もちろん私の記憶にないくらい幼い頃はきっと抱いたり頬ずりしたりしてくれていたに違いありません。
変な風に取られると困るのですが・・・、私も大人になって恋人ができて手をつないだり抱き合ったりしたとき、なんとも言えない安心感や安らぎを感じたものです。

欧米では他人との挨拶でも握手したり抱擁したり、他人でも頬と頬をくっ着けたりしますが、日本人は民族的な習慣(文化)として、人前かどうかに関係なく大人になるとあまり人と接触することを好まないようです。

自分も結婚して子供ができました。乳児の頃はもとより、小学校低学年くらいのときに、子供が何かの理由で泣いたりしたとき、理由をたずねたり、手当てをするよりも、しっかりと腕の中に抱きしめてあげて、徐々に治まったときの安堵感は今も私の記憶に残っています。人間の体温や、柔らかさや重さを感じることはとても大切なことだと思います。

二人の娘はもう19歳と22歳ですから、抱いたりすることはできませんが、大学入試で頑張っているときや、就活が思うように行かず、女房には何かと相談していたようですが、私には何も言わず、悩んでいるように見えたときは父親として何かを言うよりも抱きしめて安心させてあげたいと思ったものでした。

母がまだ認知症になる前は、お互いに触れ合うことはありませんでしたが、認知症になって、少しずつ子供のようになってきてからは、親と子の関係が逆になり、ときどき抱きしめたり、頬ずりしたりしました。
母は特に嫌がる様子はありませんが、母の方から腕に力を入れてはくれません。

特養ホームにお世話になっている今でも、2週間に1回程度ですが、面会に行く度に肩を抱いたり、頬ずりしたりしています。

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大人の尊厳、歌で仲良く

初めてのヘルパー、綾野沙代(仮名)さんは、認知症の母と親しくなるために、そして母の認知症の進行を少しでも遅らせるためか?母の年齢に合わせた歌を一緒に唱うことにしてくれました。
幼稚園や小学校で子供が唱うようなものではなく、昔流行った歌謡曲ですから、忘れてしまった部分も多かったのですが、思い出しながら楽しんで歌っていたようです。

週に2回ずつ通っているデイサービス先の老人施設では、よく皆で歌を唱うらしく、ときどき歌詞の書かれた紙を持って帰って来ることがありました。埴生の宿、春の小川、など小学唱歌がほとんどでした。多くの人達に抵抗の無い選曲となると、そうならざるを得ないのでしょう。

最近は少なくなっていますが、
病院や老人施設でたまに聞かれる呼び方で「お婆ちゃん」とか「○○ちゃん」などと、子供扱いした呼び方には以前から違和感を持っていました。
親しみを込めているつもりなのでしょうが、どんなに歳をとって、認知症になって、子供のようになってしまっていても母は歴とした大人です。

若い人から"○○ちゃん"などと呼ばれていいはずはありません。
たとえ本人は解らなくても、家族としては、自分の母親が子供扱いされている様子を見るのは抵抗があります。
大人としての尊厳を大事にして欲しいと思っていました。

私がお願いした介護事業者のケアマネージヤも、綾野さんを始めとするヘルパーさん達は、私の母に対して、いつも目上の人に対する姿勢を最後まで崩さないで接してくれました。

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初めてのヘルパーさん

話が前後しますが…。
介護事業者のケアマネジャーと面接して、母の認知症の症状や、元の性格。
身体的な状況、弟と私の仕事のことや、私には家族があって、離れたところに住んでいること、弟と私が交代で介護してきた状況など、母と私たち家族の生活の全てを説明して、母にとってどんな介護サービスが適切なのか、いろいろな利用者のケースや介護保険の制限などを知っているプロの立場で「ケアプラン」を作ってもらいました。

そして先の記事に書きましたが、2005年の5月16日に初めてのヘルパーさんが来てくれることになりました。
どんな人が来てくれるのか、母は抵抗なく介護を受け入れるだろうか?
初日は、面接したケアマネジャーが一緒に来て母に紹介してくれました。

元気で明るい中年のおばさん(失礼!)で、母や私たちの話を良く聞いて、実にテキパキと家事をこなしてくれる人で、母もとても気に入ったようでした。
まるで自分の母親のように接してくれる その綾野沙代(仮名)さんには、その後、母が特養ホームに入所するまでの1年と9ヵ月もお世話になることになりました。

まず、輪ゴムで留めただけの母の髪をきれいに梳かして、後ろにチョコンと小さなおまんじゅうにしてくれて、見違えるような「品の良いお婆さん」にしてくれました。
弟も私も、母の髪を梳かすことはしていましたが、丸くまとめることができず、輪ゴムでしばって後ろに垂らしておく程度のことしかできませんでした。
母よりも私達の方が嬉しくなって、写真を撮ったくらいです。

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徘徊老人デビュー

2006年の8月28日、私仕事の都合で少し帰りが遅くなりましたが、昼間はヘルパーさんが看てくれるようになっていましたし、「要介護4」になってからは、夕食の世話もしてもらえるようになっていたので、9時ころに帰宅しました。

母は既に休んでいる時刻なので、そっとドアを開け、暗い母の部屋を覗き、夏掛け布団が盛り上がっているように見えたので、今夜は起きてこなくて助かった、と思いながら、隣の弟の部屋で仕事の資料を見たりしていると、11時頃になってドアのチャイムが鳴りました。

こんな時間に誰だろう、とドアを開けると、お巡りさんが二人とその後ろに母が呆然とした顔で立っているではありませんか! 自室で眠っているとばかり思っていたので本当にビックリして、思わず母の部屋の方を振り向いてしました。

家から100mほど離れた大型ドラッグストアの駐車場をウロウロしているところを、通りかかった人が、どうも変だと交番に知らせてくれたらしいのです。
サンダルも履いているし、膝や手もよごれてはいないので、転んだりした様子もなく無事ではありました。
お巡りさんが一旦交番まで補導?したが、どこに住んでいるのか自分の家がどこなのか分からなかったそうです。名前が分かったので住民台帳を調べてやっと住所が判明したので連れてきてくれたとのこと。
住所は若いときに住んでいた長野県の住所を何回も言うので、お巡りさんもビックリしたらしい(^_^;)
「とにかく怪我が無くて良かった、今後は気をつけてください」 と言ってお巡りさんは帰っていきました。

どうして部屋を出たのか、どこへ行こうと思ったのか? 子供なら問い詰めたり、勝手に外出したりしてはいけないと諭すところですが、当の母は自分がどうしたのかわからないといった様子で、特に疲れているようではないし、興奮している様子もありませんでしたので、「一人で出かけて大変だったね、もう夜も遅いけど、お茶でも飲もうか」と、二人で静かにお茶を飲んで休ませました。

これまで、病院を脱走したり、早朝に廊下をウロついたりしたことはありましたが、自宅の屋外を徘徊したことが一度も無かったので、私は内心おおいに慌てました。

土日など、昼間、「チョッと散歩してくる」といって出て行っても、そっと後姿を見ていると、足が痛いといって10mも行かないうちに戻って来るのが常でしたから、遠くへ行くことはないだろうと、高をくくっていたのです。

それが母の徘徊老人デビューでした。

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ケアプランと介護のチームワーク

ネットで探した介護事業者に電話して、介護サービスを受けたい旨を説明すると、早速ケアマネジャーが面会して、ケアプランを作成することになりました。
要介護3で、介護保険のポイントを最大限利用してどのくらいのサービスが受けられるものか、自己負担がどのくらいになるのか、ケアプランを作成してもらい、説明を受けて大体のところは分かりました。

週に3日、(月)(水)(金)は、昼食の世話をしてもらい、夕食用の食べ物をテーブルに用意してもらう。
火曜日と木曜日の朝は、デイサービスへ送り出してもらい、帰宅時刻に迎えて、夕食の世話をしてもらう。火曜日のデイサービスでは、入浴をさせてもらうことにしました。
土曜と日曜は、弟か私が必ず終日介護することにしました。

一週間おきの金曜日には、主治医である精神科の医師の往診も予定され、
2005年の5月16日から弟と私、そしてヘルパーさんとのチームワークによる介護生活が始まりました。

ヘルパーさんは3人が交代でみてくれました。
朝食は前日の晩に泊まった弟か私が必ず食べさせて、9時頃に出勤し、その後2時間半後にはヘルパーさんが来てくれて、母の部屋とリビングの掃除をし、昼食の世話をしてくれます。
午後1時半でヘルパーさんは帰ってしまいますから、母にとっては、それから子供が帰って来るまでが長い“電話生活”です。

インターネットを利用した監視カメラで様子を見ていると、ヘルパーさんが帰ってしまうと直ぐにヘルパーさんが夕食用に用意してくれた食べ物を食べてしまっていることが分かるなど、一人のときの母の様子が見えることで、介護の方法をいろいろと調整するのに役立ちました。

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骨折

母は通常は畳に布団を敷いて休んでいます。
母が椎間板ヘルニアから来る腰の痛みや、膝の関節の痛みを訴えるようになって間もなく、弟が寝起きが楽になるようにとベッドを買ったのですが、これまでの習慣を変えるのは難しく、どうしてもベッドでは寝ようとしないので、仕方なく弟の部屋に置いて、弟と私が交互に泊まり込む時に使用していました。

ある日、私の携帯電話に隣りのお婆さんからの電話で、『お母さんが足を傷めたらしく、痛い痛いと大騒ぎしているから、救急車を呼びましょうか?』と言う。

ビックリしましたが、日頃から痛みに関してはとてもオーバーな表現をする母のことですから、救急車を呼ぶほどの事かどうか、私が見てみないと解らないと思い、仕事の途中でしたが、仕方がありません、「直ぐに行きますからチョッと様子を見ていてください」とお願いして、大急ぎで実家へ駆けつけました。

母は左足の薬指?につながる細い骨を傷めたらしく歩けません。すねにも赤い擦り傷があって、ひどく痛がっているので、直ぐに救急車を呼びました。
実家から10分くらいのところにある救急病院へ。診察の結果は骨折で4~5日の入院ということになりました。

通っていた整形外科では、既に骨粗しょう症の診断ももらっていて、薬も服用していましたが、骨折の原因は、ハッキリとは分りませんでした。
家に一人で居るときには、時々弟のベッドで昼寝をすることがあるらしいことは分かっていたのですが、たぶん起きた時に小さな手摺に左足先を引っ掛けて転んだのではないかと思われました。

さて、それからが大変でした・・・。

私が病院から引き上げると、
その頃は、以前の記事に書いた「電話生活」状態でしたから、ギプスも着けないうちから、勝手に病室のベッドを降りて、痛い脚を引きずりながらナースステーションの脇にある公衆電話まで行き、弟や私に電話を掛けるのだと、看護師にコインを借りたり、自宅の電話と違うので掛け方が分らず、看護師に頼んだりしたらしいのです。
確かに、入院中だというのに、かなりの頻度で弟と私に電話がありました。

二日目には看護師が音を上げて、病院から「もうギプスもしていて、自宅でも介護できるから引き取りに来て欲しい」、という連絡があり、脱走したときと同様、タクシーで迎えに行きました。

帰宅してからは、ひどくギプスを嫌がって、結局一人の時に半分は、むしり取ってしまいました。今でも無残な形のギプスが実家にあります。

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1万円の味噌樽

ある日帰宅すると、台所に上部の直径が18cm高さ15cmくらいの、木製の樽が置かれていました。ラベルには聞いたことのないブランドの『○○○味噌』。
これはどうしたのか? と、母に聴いても「今日は誰も来ないし、私は知らない」と言うばかりでサッパリ事情が分らない。
近所の誰かが持って来てくれたのか? 親せきの誰かが来て置いていったのか…?弟や心当たりに電話してみても分りません。

とりあえず、その晩は念のため開封せずに置き、翌日、掃除をしていると、母の布団の下から領収証が出て来ました。
金額は1万円、受領印も無く、手書きで味噌樽と同じ味噌の名前が書いてあるだけで、会社名や電話番号などは書かれていませんでした。
母が一人で居るときに売り付けられてしまったようなのです。

今思えば、何とか調べる方法もあったのかも知れませんが、そのときは腹が立つやら、がっかりするやらで、どうすることもできませんでした。
母を問い詰めてみても仕方のないことは解っていましたので、怒る訳にもいかず、樽を開けて小分けにして近所に配ったり、しばらくの間はその味噌で味噌汁を作って食べました。高いだけあって?不味くはありませんでしたが、それからは母の財布には、いつも千円くらいしか入れないようにしました。

財布そのものを取り上げると、不安がるし、ヤクルトのお姉さんが600円くらいのセットを毎週売りに来るのでその支払い用です。
それも、数ヶ月後には解らなくなり、その後、介護保険でお願いするようになったヘルパーさんに頼んで支払ってもらったり、ヤクルトのお姉さんに事情を説明して、数週間分ずつまとめては、弟や私が払うようになりました。

財布が無い!と言って部屋中を探し回ることもなくなり、気は楽になりましたが寂しくもありました。

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テーブルにはいつも写真の束

日記を書かなくなって、と言うか、書けなくなって記憶もあいまいになってきた頃から、テーブルの上にはたくさんの写真や年賀状などを置くようになりました。一日に何度も何度も見返しては、「この子は誰だい?」「この人は誰?」などと自分の弟や、姪のことを繰返し聞く毎日です。

子供が大好きで、テレビに子供が映ると「可愛いねぇ」とか「どうしたの?」などと呼び掛けたり、まるで子供がそこに居るかのようにあやしたり、話しかけたりしていました。

テレビの画面にテロップが出ると、必ず声を出して読み上げていました。ほとんど文字を書くことができなくなっても、読むことはできていました。ニュース番組のアナウンサーが出ると、「この人はいつも出るねぇ」と言うので、(解っているんだ…)と思っていると、初めて見るはずの、事件の容疑者などでも、「いつもこの人が出てくるね」と言うので、がっかりすることも少なくありませんでした。

写真は生前の父が取った日常のスナップが多く、母の弟家族が遊びに来たり、私が家族を連れて遊びに来たときなどに、近くの公園へ行って孫と一緒に撮ったものや、ベランダや部屋の中に置いてある鉢植えの植物(花)や、飼っていたインコを撮ったりしたものがほとんどでした。40~50枚の写真を何回も順に見ては、同じような感想を言い、「この子は誰だい?」と、同じ質問をします。

私たちも少しずつ、毎回同じように答える余裕?が持てるようになって来ていましたが、どこまで分っていて、どこからわからないのか?日によっても時間によっても違うので、どう対応したらいいのか判らずに、正直言って、まだ苛立つこともありました。

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電話は転送サービス

実家に泊まった翌朝、電話が鳴り、出てみると、駅前に建設中のマンションの不動産屋さんで、先日電話で説明した物件について、詳しい資料を持参して説明をしたいので、これから伺っても良いか?と言うではないか・・・・。

どうやら母が一人のときに電話があり、そんな話になってしまっているらしい。簡単に事情を説明して丁重にお断りした。訪ねて来る人ばかりではなく、電話セールスもあることにやっと気が付いた。

弟に説明してから、早速ネット検索でNTTの転送サービス機能の種類を調べ、サービスを申し込んだ。あらかじめ登録した10種類の電話番号から掛かって来た場合だけ着信するようにして、その他は全て私の事務所に転送されるような設定にした。弟や私の職場の固定電話と携帯電話、それに主な親戚の電話番号を登録したら10個の登録リストが直ぐに埋まってしまって、ご近所の人たちの分までは登録できなかった。

私の職場は個人事務所で、一人しか居ないから電話には個人名で出るので、相手の名前を承知で、目的があって掛けた人は間違い電話を掛けたとは思わない。電話セールスも多かったが、同じ住宅の自治会の役員さんとか、創価学会の会員さんが座談会の日程を知らせてくることがあった。

今までもたぶん同じくらいいろいろな電話があったのだろう。母は電話があったことも、誰かが訪ねて来たことも、昼間あった事は、弟や私が帰宅した頃には全部忘れているので、私達はそのことに全く気が付いていなかなかった。

たまに、田舎に居る母の兄や弟が来た、とか言われると、そんなはずは無いので、「夢を見たんでしょ?」などと言っていたが、今思えばきっと電話があったのだ。誰でもいろいろな事を忘れるが、その日にあったことも忘れるようになると、生活に支障を来たす。

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新聞の勧誘員

母しか居ない平日の昼間に来られると困るのが、新聞の勧誘員でした。

もともと人の良い母は、どんな人が来ても、「まぁどうぞお入りなさい」と言って招き入れ、お茶を出す傾向があり、新興宗教の会員や新聞の勧誘員を始め、いろいろなセールスマンも例外ではありません。

あるとき帰宅すると、翌月から3ヵ月間に印しが書き込まれた読売新聞の購読契約の用紙と新しいティッシュボックスが5つばかり下駄箱の上にあるので、弟が契約したのか電話してみると違うといいます。

日付が今日なので母に聴いても、誰も来なかったと言うばかり。
翌日販売店へ行って事情を説明し、ティッシュボックスを返し、解らなかったかも知れないが、母は認知症だし、印鑑も押してないから無効でしょう、と言い張って取り消してもらったことがありました。

IPカメラの映像で遠隔監視ができるようになってから間もなく、昼過ぎに、母が玄関で男の人と話している声が聞こえて来たので、注意して聞いてみると、どうやら新聞の勧誘員らしいことが分かりました。

画面を見ながら直ぐに電話すると、母が電話に出るのが見えます、「今、誰かお客さんが来ているの?」と、さり気なく確認してから「じゃぁその人と替わって」と言うと、間もなくカメラの下を男性が通るのが見えて、電話に出たので、事情を説明して、監視していることも言い「直ぐに引き上げないと警察に連絡しますよ」と告げると、たちまち帰って行きました。
新聞屋さんには脅かして悪かったのですが、仕方がないんです。

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